文化
日本の落花生栽培は、大磯からはじまった
横浜から伝わった一粒の種から、150年続く産地文化が生まれた。
日本における落花生栽培は、明治4年、当時の国府村寺坂、現在の大磯町にあたる場所で、渡辺慶次郎という人物が栽培を始めたのが最初と言われている。文明開化で賑わう横浜で「異人豆」として売られていた落花生がきっかけになったと伝えられており、南米アンデスを原産地とするこの作物が、横浜から大磯へと渡ってきたことになる。翌明治5年には隣接する二宮町の二見庄兵衛も横浜で譲り受けた種の栽培に取り組み、大正期にはこの地域の落花生が横浜からアメリカ方面へ輸出されるまでになった。なお、落花生の始まりについては諸説がある。
現在、国産落花生の生産量で全国的に知られる千葉県が栽培を始めたのは明治9年(1876年)で、しかもその種子は神奈川県から持ち帰られたものとされており、大磯・二宮での取り組みはそれよりも早かったことになる。この事実は地元でもあまり広く知られているわけではないが、「相州落花生」という言葉には、横浜からこの地へと渡ってきた小さな種の、確かな歴史の重みが刻み込まれている。今でも大磯・二宮周辺には落花生を扱う商店が点在しており、当時の記録が単なる歴史の一節ではなく、今も続く産業として生き続けていることを実感させてくれる。
二宮では明治15年に二見庄兵衛が、茎の立つ「立ち落花生」を見いだし、収穫しやすく味もよいことから栽培がさらに広がった。「相州落花生」という呼び名は今も二宮の地域ブランドなどに残されており、この地域が持つ農業史の厚みを今に伝える数少ない手がかりになっている。観光としてはあまり注目されない歴史かもしれないが、知れば知るほど奥行きのあるテーマだ。
地元でもあまり知られていないこの歴史を知ると、当たり前のように並んでいる落花生の看板の見え方が変わってくる。小さな発見の積み重ねこそが、地域を深く知るということなのかもしれない。
現在の大磯町・二宮町周辺には、当時の栽培の様子を伝える資料が地元の資料館などに残されている場合もあり、興味のある人は訪ねてみる価値がある。何気なく通り過ぎてしまいがちな町の風景の中に、こうした知られざる産業史が眠っているという発見こそ、地域を深く知ることの醍醐味だ。
二宮の落花生栽培の先駆者を紹介する「人」カテゴリの記事とあわせて読むと、この産業がどのように始まり広がっていったのかがより具体的に見えてくる。

